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    硫黄島からの父の手紙、大切に 苫小牧の吉岡さん

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    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170218-00010000-tomamin-hok

     太平洋戦争末期、日米両軍が硫黄島(東京都)で死闘を繰り広げた「硫黄島の戦い」が始まった日から、あす19日で72年。苫小牧市ときわ町吉岡直樹さん(74)はこの戦いで亡くなった父の實さん=享年35歳=が、死去する約半年前に戦場で吉岡さんに宛てて書いた最後の手紙を今も額縁に入れて大切に保管している。實さんが現地でどのような最期を遂げたのかを調べ続けており、21日には、同じように硫黄島で父を亡くし長年、同島で遺骨収集活動を続ける恵庭市の三浦孝治さん(84)に会う予定。吉岡さんは「少しでも父に関する情報が得られれば」と話している。

     吉岡さんは1943年1月、オホーツク管内興部町で、實さんと母ミツゑさんの間に、4人きょうだいの次男として生まれた。

     實さんは44年に海軍硫黄島警備隊の衛生兵として出征。米軍の上陸から約1カ月後の45年3月17日に戦死した。厚生労働省の記録には戦死場所は同警備隊の本部壕(ごう)とあるがどのような最期を遂げたかは分かっていない。

     「直樹に告ぐ」という手紙は44年8月に書かれたもので、戦後に母が興部町の自宅で受け取った。手紙には「父、異郷に在りて敵と戦い、再び生還を期せず(中略)父たとひ戦場の露と消ゆるとも、霊は常に直樹の成人を楽まん」と、自身の死後も直樹さんや家族の成長を願い、見守りたいという内容がつづられている。

     吉岡さんは「父は硫黄島から生きて帰ってくることができないだろうと思い、遺書をしたためたのではないか」と語る。

     直樹さんは12歳の時に初めて、父が硫黄島から送った手紙ミツゑさんに見せてもらった。それまではミツゑさんが再婚したこともあり、實さんのことについて詳しく聞くことができなかったという。手紙を読んでからは「母を守り兄を敬ひ、兄弟一致力をあはせて家名をあげよ」という文中の言葉を胸に額縁に収められた手紙と遺影に毎日手を合わせ、今も石油販売業の経営者として仕事に精を出す日々だ。

     吉岡さんは厚労省の社会・援護局に照会するなどし父がいつ出征し、どのような最期を遂げたかを今も調べている。市遺族会の会報で、国が硫黄島での戦没者を慰霊する旅の参加者を募っていることを知り、2013年11月には現地を訪問した。機会を見つけ、政府が行う、遺骨の収集事業にも参加したい考えだ。

     そんな中、このほど、元市遺族会会長の冨士本愈(まさる)さん(80)を通じ、自分と同じように硫黄島で父を亡くし、政府が行う同島での遺骨収集事業に長年参加する三浦さんの存在を知った。三浦さんは「硫黄島の戦いでは、ほとんどの兵士が死んでしまい、当時の状況を語れる人はほとんど残っていない」としながら「これまで調べてきた資料を基に、当時の状況など自分が知る限りのことを吉岡さんに説明したい」と言う。

     吉岡さんは21日、三浦さんと恵庭で会うことになった。「いくつになっても父は特別な存在」と吉岡さん。三浦さんの話を手掛かりに、少しでも父の面影に触れられればと思っている。

     硫黄島の戦い 1945年2月19~3月26日、東京から南に約1250キロの小笠原諸島に位置する硫黄島で繰り広げられた日米両軍による攻防戦。日本軍は硫黄島を本土防衛の重要拠点として徹底抗戦した。この戦いで、栗林忠道中将を総指揮官とする旧日本軍2万人余りが戦死。米軍も約2万9千人が死傷した。太平洋戦争における激戦の一つとして、映画やドラマにもなっている。
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